告白文 -白昼堂々-




ワタクシ「月」は1992年春に踊り子「月丘雪乃」として初舞台に上がりました。

何故踊り子になったのか…

そりゃ単純に、「なりたかった」からでした。

幼少の頃、父子家庭だった為
子育てが出来ない→保育園→新体操教室と通わされ
新しい母を迎えてからは、新体操がモダンバレエに変わりました。

日々のレッスン通いが嫌いで、(今でも悪癖だが行くまでが億劫)
どうにかして休むコトばかり考えていたワリに通えば覚えが早く

サーカス並みの技量を身に付け、少し将来的にやる気になった頃
突然原因不明の病にて挫折。

放射線漬けになりました。

結局は母がいない家庭の為の管理不行き届き。
幼児期に罹っていた病に気付かずに、
無理な運動を強いられていたのが原因。と。

脚の長さが左右5cm以上も違う程、カラダが曲がってました。

「激しい運動はダメ。」「長い時間立つのも座ったままもダメ。」

無気力な生活と共に、精神的にも無気力に。

ワタクシは何故か幼少の頃から見世物や地下劇団等の
「危ない世界」に惹かれていたので、
その時連れられた温泉地のストリップ劇場で見た光景が
完璧なるトラウマになりました。

ココで見た光景が、まさにワタクシの「白昼夢」でした。

「女に生まれたからは、こんな女になりたい」と
ガキながら荒んだ考えが定着し
いつかは「入りたい世界」となっていました。

踊りの経験あれど、踊れない。
舞台に憧れていても、団体行動が苦手な体質。

「踊りなんて二の次だから」

そう教えられた、その世界を知る人の言葉にますます気持ちが傾き…

当時街中に蔓延していた「スカウト」にわざと捕まり、
ストリップ入りを果たしました。

「人気を求めず」
「印象は深く」
「細く、出来るだけ長く」

コレを最初からモットーにしていました。

「月丘幽廓」「月丘慕情」「世迷言」等でもお話ししましたが
(なので敢えて余計な詳細は書きません)
長く居る為に色々思案し、失敗や挫折みたいなモノも多々ありました。

何年か経った頃、突然何かが抜けたように吹っ切れ
ソコからは舞台創りにソレなりに力を入れられるようになりました。

元々「踊り厳禁」な体質なのに入ってしまった世界。
無理が祟って早くに潰れないよう、
通常の踊り子ペースの3/1程度で舞台に上がっていました。

コレを許してくれる事務所に所属出来たのは本当に幸いでした。

のんびり自分のペースで、
好きなように舞台上の世界を創り演じるのは
ワタクシにとっては最高の生活でした。

…しかし。

いつかは「終わり」が来るこの生活。
「生涯」とは云いたくても、たとえ実行出来たとしても困難な世界。

何とか「終わり」が遠のくよう
そして終わりの時は自分の納得が行く方法で迎えたい。

コレだけが、生まれて初めて思う「先の望み」でした。

しかし、「ワタシにはコレしか無いの」的考えは無く、
いつでも行きたいトコロに行ける気持ちは持っていました。

なので、
事務所と意見が合わずに舞台を降りたコトも幾度かありました。

しかし、「一度入ったら抜けられない」のも解っていましたので
結局は戻ったり…

そうこうしているウチに、10年が経ちました。

年齢的にも、そして元々の体力の無さにも重さが増し
段々と「キツイ」「ツライ」気持ちの方が強くなって行きました。

ソレに平行して、ストリップの内部事情も
段々退行して行く雰囲気がありました。

システムが変わって行き、段々と仕事量が増えて行く。
(回数では無く、舞台内容量です。)

以前よりも真面目に、マトモにこなしても
本来のモットーから外れて「お客様思い」な舞台を創り
評価されたとしても…

ぶっちゃけ報酬は下降して行く。

劇場は減り、生き残った劇場は出演者を減らし
足りなかった踊り子は、次第に余って行きました。

コンスタントに仕事を確保するには、人気や技量
または劇場関係者に個人的に気に入られるコトがなければ
難しくなって行きました。

無休で巡業していた踊り子にはダメージでしたが、
のんびりペースで継続していたワタクシには、特に大きな影響は無く
ただ、舞台創りにおいての労力は増えて行きました。

「もうそろそろ、退き時かな。」

そう思うようになった頃、
緊張感が抜けたのかトンデモナイ失敗をやらかしてしまいました。

妊娠…しちゃったんです。(ざぶーん)

上手い具合にオトコを切らしたコトが無いワタクシは
その辺のトコロでは気を付けてたつもりでしたが…

全然気を付けてなかったんですね。(自爆)

ワタクシは20代初頭に一度妊娠をし、
本気で「産むつもり」でいたのに流産をしてしまい
ソレきり、子供に対する気持ちもスッカリ流れてしまいました。

一生、子持ちになんてならない。
そう思っていました。

なので、この時迷わずソッコー処置。(冷酷)
オンナを「道具」「金づる」にしか思わないような
オトコ達にしか遭遇しなかったワタクシには珍しく
産むコトを反対しなかったオトコとのコトでした。

…罰が当たったんでしょうね。

その後、今でも思い出すと寒気がする程の体調不良に見舞われ
舞台を途中で降りると云う失態もし、
向こう3ヶ月位出血が止まらず、その為による貧血等で
歩行も困難な状態に陥りました。

「先の不安」を初めて感じました。

何とか回復し舞台に戻り、
今までのダラダラした考えを一新し、やり直して行こうと決めた時

何とも呆れる事態。
またしてもやっちまいました。妊娠…
(学んでナイね何も。笑)

以前の状態からようやく体調を取り戻した時。
「こんな時に」と思うも、やはり以前のようにソッコー処置とは考えられず。

正直随分迷いました。

多分ココでまた以前のように行動してたら
今のワタクシは無いでしょうね。

つか、もう「いなくなって」るかも。
その方が良かったのかな…(苦笑)

結局、「我が身を守る」為に
自分の中から抹消した「出産」と云う方法を取るコトにしたワケです。

人生「反省」は常ですが「後悔」だけは御免です。

所属事務所は「ソレが一番♪」と、とても喜んでくれ
「産まれてから後はどうするか、その時にまた考えよう」と云ってくれました。

そして静かに引退。
しかしワタクシはその時は「戻る」考えはありませんでした。

そんなコトよりも何よりも、
ワタクシ自身「ちゃんと出産出来るのか」が問題でしたので。

案の定、かなり過酷な出産でした。

がしかし、産まれて来た我が子はとりあえず無事五体満足。
ワタクシの父親が出産見舞いに来た時真っ先に云ったコトバが

「…指5本あるか?」

でしたからね。

出産時の身長も体重もワタクシには意外で大きく健康的な子供でした。
正直本当にホッとしました。

…が、やはり幸せと云うのはそんなに簡単に来るモノではなく…

我が子は心臓疾患があった上、出産10日後に別の病気発症。
あっと云う間に大病院の集中治療室に隔離。
母親すらも限られた面会時間しか許されない集中治療室。

既に妊娠中に中毒症を起こしていたワタクシは
初乳も微量でしか与えるコトが出来ないまま、
ショックで生後2週間で乳が止まりました。

十数kgも増えて規制された程の体重も
1ヶ月で妊娠前の体重に落ちました。

その後何とか子供は無事普通に生活出来るようになり、
1年後ワタクシは再び舞台に戻りましたが
その間も子供は突然の病や入院を繰り返し、
劇場と病院の往復をしたコトもありました。

ワタクシが劇場入りした1992年当時。
楽屋には赤ちゃんがいたりして、
母親が出番の時は待ちの踊り子が代わりに面倒みたりしてました。

小さな子が楽屋を走り回り、
わざと舞台ソデから出番中で舞台にいる母親に他の踊り子達が

「ママーぁ♪」

と呼ばせたりしてましたっけ。(笑)

でも当時は、ソレで良かったですし
お客様達もソレを知ってて、母親である踊り子の「ファン」をしてました。

近年、そうは行かなくなっていました。

「子連れNG」「子持ち発言NG」な世界と変わって行ってしまっていて
ワタクシも事務所から復帰時には「絶対オフレコ」と釘を挿されてました。

ま、ソレでも
心無い踊り子仲間やお客達が、
以前は無かった「ネット」等で云いふらしたりするんですがね。

自分も体力が無い上、病持ちの子供を抱え
旅廻りメインだったワタクシは、ソレも出来なくなり…

仕事の拘束時間は日々伸びて行き、不眠不休の生活に
「コレは本当に無理」になって来てしまいました。

いよいよ本当に「終わり」を迎える時になりました。
幸いにも舞台を楽しみにしてくれる人達も増えたので
今までの思いや、感謝の気持ちを込めて最後の舞台を創り

そして「引退興行」をさせてくれる劇場にもありつけ、
実に有り難き念願叶って舞台を降りました。

子供の時間に併せる為にフロアの仕事を藤乃に紹介して貰い、始め
本年春まで続けて来ましたが

子供がこの春、無事小学生になりました。

近頃我が子がワタクシの「仕事」を知ろうとする素振りが見え始めまして…

ワタクシは自分の「仕事」は好きですし、勿論否定等しませんが
知らなくても良いコトを敢えて知らすコトは無い。と思っています。

「知らぬが花」ってヤツですね。(笑)

なので、子供の「物心」が芽生える前に
この仕事から離れた方が良いだろうな。と思っていました。

…ま、ソレよりも何よりも。
こんな歳までこの仕事を続けられてたコト自体、
自分自身スゴイと思いますが。(笑)

フロア仕事に移っても、泊まりの仕事は受けれず。
(藤乃となら別笑。)
近場でしか出来ないのもやはり、こちらの世界でも年々困難になり

子供が小学校に入るようになったら
今までのような生活は出来なくなると感じていたのもあって、
ちょうど良い機会と完全引退を決意しました。

ま、フロア仕事は
「小遣い稼ぎ」(ワタクシと子供の無駄遣い用。)の為だけでしたので
大変失礼ながら特に強い思い入れは無く…だったのですが。

ただ、最後のフロア仕事の際。
藤乃が同行してくれたのはモチロン
(藤乃は劇場引退時も来てくれました。)
劇場時代からの良きお客様も来て下さったり…

そして最後の店ではホステスさんがショーの終わりに
(ショーの最中に事情を打ち明け、お別れの挨拶をしました。)

「お疲れ様♪」
「頑張ってね♪」

と、声を掛けてくれたコトは本当に感動的でした。

…我が子は相変わらず、年2回の定期検診は必至。
結局身体の成長が遅れワタクシに似てしまい小っちゃい子ですが
無事元気に学校に通っています。

そしてワタクシも。
子供に併せた時間帯に働き、
子供が帰宅する時間に帰宅し、宿題の監督なんかをしています。

普通の「お母さん」な生活をしています。

コレはワタクシの人生設計の中に全く「組まれて」いなかった生活です。

「家族なんていらない」
「子供なんてもってのほか」

こんな考えで生きて来たワタクシには未だにピンと来ない、
この生活自体もワタクシにとっては

まさに「白昼夢」なのです。

モチロン、ワタクシですから
「楽しんで」はいますけどね。

…子供がいても、踊り子をしている人は沢山います。
ワタクシも叶えば、ソレでも良かったです。

しかし…あまりにも変わってしまったあの世界。
大体年齢的に「シオドキ」でもありますし
そうでなくとも、現状を思えば思う程

「終わりにして良かった。」

コレに尽きます。


…舞台は降りましたが、
「月の字」は生きています。

眩しさに目が眩む真昼の白い世界。
夢か幻かうっすらと見えたような…

幽霊のように浮かぶ真昼の月。

そんな月の、囈言

またいずれ、お目に掛かる時があるやも知れません。

それは、白昼夢なのか。

…よるのゆめこそまこと。



2009年7月1日 +++月+++








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